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14,15日は11:30〜17:00の営業です

2016.06.14.09:22

誠に勝手ながら本日14日と明日15日は11:30〜17:00(16:30ラストオーダー)の営業となります。
よろしくお願いいたします。

僕は故郷・大分県に向かっています。
地震以来、なにか引っ張られている気がして仕方なかったのですが、なかなか行けないままになっていました。
今回、お店や家族やスタッフに無理を言って、実家の九重、震災で閉店になってしまったcafe CREEKS.さん本店のある湯布院、親戚の居る阿蘇を巡ってこようと思っています。
お客様から預かった義援金もお届けしなければいけないし。
こちらから集めることをしていないのに自発的に持ってきていただいた五百円玉貯金などを。

僕が大分出身という事を覚えていただいていて色んな方に声をかけていただきました。
「ご実家は大丈夫?」「ご家族はご無事?」と。
ありがとうございました。実際に見て参ります。

昔、大陸はひとつで、地殻変動で今の五大陸に分かれたと小学校の時に習いました。
地球も生まれて成長し、歳をとって、やがて死ぬ無常を逃れぬ星です。人といっしょです。その上に生きている人間は、あたかも私の皮膚の上に生息している菌類のようにいつも流動変化消滅を免れねものなんでしょう。だから僕らを恐れさす地震も地球大の規模でいうと小さな変化に過ぎないのかも知れない。そう思うとスカイツリーとか大丈夫なんですかね…。

そんな事を考え出すと、変わらぬものと思い込んで変わる世界を生きるより、「変わるのが世界」なんだと生きている方が、消極的に見えて実は強い生き方なのかもしれないなと思えてきます。


先日は大変ご長寿の方をお葬式でお送りいたしました。生まれたての玉のような赤ん坊のと同一と思えないほど深く畳みこまれた皺や硬く曲がった関節、痩せこけた頬。90年のご生涯の全てが身体に刻まれていました。

変化することが生きるということ。
変化しなくなったことを死という。

一呼吸ごとに、一食ごとに、誰かとしゃべるごとに僕は変化している。
良い変化、悪い変化、どちらもありますが、その良し悪しを決める場所は私です。変化自体に良し悪しはありません。
あらゆる変化を、辛いことも悲しいことも、いつか転じて「よし!」と言える場所を私の心の世界に建設すること。
それが揺るがない「仕合わせ」につながるんだと思います。
私たちは巡り合わせの世界の中で、巡り合わせが集まって存在し得た個人個人なんですから、両手に握りしめてものをそっと手放して、巡り合わせに身を委ねれる時が訪れたら、それが仕合わせが生まれる瞬間なのかも知れませんね。
臨終の時に「いろいろあったけど生まれることができて良かったなぁ」と感じれること。目標があるとすればそれだけです。その為には今を燃焼するように心掛けています。いつそれが来るかはわからないですから。

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梶本トトになりたての頃 生後二ヶ月くらいかな。今ではすっかり顔長になりました笑

日本国憲法前文

2015.09.19.00:24

「…。国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。…」

なんと素晴らしい憲法の国に生まれた私たちであることか。
まさにこれは「浄土の憲法」、「仏国土の憲法」と誇れるものだと思う。


はっきり言って
戦争は地獄道です。
経済成長一辺倒は餓鬼道です。
国家に隷属させられる国民は畜生道です。

今の安倍内閣は、日本を地獄餓鬼畜生道、即ち三悪道に堕とそうとしているんだと思います。
三悪道とは「欲」と「怒り」と「無知」の世界です。

人間の奥深くにある根源の願い、即ち「仏」の願いに反する動向に抗わなければならない時に直面しています。


憲法は過去の懺悔から生まれた未来への祈り。
今を生きる人間に未来の責任がかかっている。


もう一度、この国をかたちづける日本国憲法前文を静かに味わいたいと思います。

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仏教に学ぶ。
浄土の「浄」は「さんずい」に「争い」
争いは無くせないもの。
ならば、必ずどこにでも起こってしまう「争い」を水(さんずい)に流していける精神こそが、国土を浄(きよ)く保つ唯一の道なのではないのか。

自分をアップデートさせるもの

2015.02.19.07:18

お経は誦めなくても、日々、仏語に遇うことが、その人の生き方を好転すると思う。(良いことが起こるという意味の好転でなく、良いことと思うことが増える、の意味です)

以下、引用。

人生は一回限りのものであって、二度と繰り返すことはできない。
五十年、六十年の生涯のなかで、今日という日は一回しかない。
一日を大切にする人は、一年間を大切にする人である。
一年を大切にする人の一生涯は、空過(空しく過ぎる)しない。
一日を大切に生きるとは、必ずしも、あれやこれやを精力的にこなしていくことではない。
今日しなくてはならない唯一無二のことを見極め、そのことを行って後悔がなく、充実感が味わえることである。

怠惰は人の骨を抜く。
多忙は人の心を失う。

空過は人の尊い生命を限りなく奪いつづける。
それは大切な「時」を殺すことである。

金子大榮


"If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?"

「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは 本当に自分のやりたいことだろうか?」

スティーブジョブズ

金子大榮師、スティーブジョブズさんのこれらの金言から感じる「かけがえのない」今日を散漫に生きないための智慧の教え。

寄せてはかえす波の刻みを眺めながら。
自分が生きている「時」と「場」の現在地を時々確認することも必要かもしれませんね。
事実、僕たちはみんな宇宙大のいのちを生きているんですから。

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「死」について

2014.01.28.20:16

人間の命がロウソクの炎なら
太い炎が嵐によって、突如吹き消されることもあれば、最後までロウを溶かしきって芯まで燃え尽きることもある。
どちらが良いとか悪いとかいうことは言えない。
それもご縁。
巡り合わせ。
自分が生まれてくるもっとずっと前から続く、巡り合わせの連続。
誰もがそれを選べないとしたなら、それはその意味で平等なのかもしれない。

仏教では死去と言わず成仏と言う。
仏に成る。
ほとけさまになられる。
それを、まさにそうだと感じるには、少し時を過ごさなければいけないのだろう。
時間が経って、なつかしくさみしく想い出す時。
亡くなられたお方はいよいよ静かでますます優しい。
喧嘩したり衝突したこともささやかで温かい記憶に。
なんでやろ?
なんでそう成るんやろ?
僕らがさみしさゆえに、柔らかく想い出すから?

違うと思う。
想われていたんです。
もうずっと前から、あの方が魂の奥底で私たちを想ってくださっていたんです。
それに気づいたんです。今。
時を経て、願いや情熱の純粋なカタマリと感じるその精神に触れた時に、私たちの方が「そうやったんや」と気づけるんだと思うんです。
こちらが想う前から、想われていたからこそ、私たちは想い返せるし、その眼差しをこれからも受け続けたい、影響力を感じ続けたいと思うんでしょう。

それが仏様に成られたしるし。
私の中に感じる確かな証拠。

少し時間がかかりそうですが、あなたは仏様になられたんだなと、微笑み合える日がきっと来る。
きっと来るから、わたしもいつの日か堂々と命を終わってゆけるのかな。

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壮大な物語の一場面として

2013.06.14.00:03

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この「よる」と「夜」の間には、どんな物語があったんでしょう。

人生は、僕や私の物語。
広く長い宇宙のあれやこれやも、物語としてしか語り得ないような不可思議な事ばかり。
この朝焼けも物語の一場面に違いない。

論理が優先されるこの時代では、不思議ですまされる事があってはいけないのか。
わからないことはそっと手を合わせておく。そういう謙虚さや畏敬の心が僕たちには欠落してるんでしょうね、昔々の人々みたいな身をわきまえる心が。
人間はほおっておけばそんなに素晴らしい行いをする存在ではない、と自分自身から感じる。

今日は「人間は被教育者としてのみ存在している」という話を聴きました。
つまり、一生教育を受け続け、学び続ける者としてのみ居るんやということですか。

いままでもそれぞれそれなりの価値観を築いて、なんとかやっている私たちですけど、それだけでは自分が一体どこに立って生きているのかがわからないと。
いったんそこから外に出て、外側から自分の価値観や生きる基盤となっているものを眺めないといけないという話でした。
それがすなわち「出家」であると。そう教えていただきました。
家(自分のちっぽけな価値観)を出て、外側から眺めて初めて、その家がどこにどのように建っているのかが見えてくる。
実際に家を捨てることなんてできない僕たちには、その事を詳しく知らせてくれる「教え」がすでにあると。

つまり「教え」を聞き続けることによって、自分の価値観に固執する事なく、それを柔軟に広げ続けて、最後の最後まで可能性をも広げ続ける事ができる存在が人間ということなんでしょうか。
それはとても有難い事だと感じます。

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プロフィール

cafe watoto

Author:cafe watoto
福井県小浜市
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電話:0770-56-3893
定休日:木曜日・日曜日
時間:11:30〜夕暮れ
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